しょっきんぐ

https://www.kochinews.co.jp/article/207853

 

twitter.com

 

一個目は、数のショッキング。はってなった。電子化くらいせめてできなかったのかと思ったけど、予算的にきつかったのかな。不景気の波なのかな。新館作るってのは何万冊の焚書に繋がってしまったらうれしいものじゃなさそう。門外漢がなにかいうのはあれだけど、とりあえずショッキング。

二個目は、声が出て驚いた。人類は衰退しましたのおじいさんの役だったんだ…。運昇さんの話DGSで出てたりしてたから自分が見ていたアニメにはそんなに出てないけど、びっくり。失われるんだなあと…。

ふぇみにずむってなんともなんともだ

詳しいわけではない。でも、思うことは別にいいんだと思う。

女性はそんなに差別されているんですね、たいへーんっておもうだけでもいいのかもしれないと思う。

差別と区別の話もある。

できないことはできないっていうのもある。

私は性差別を感じたことはない。

授業で学んだことや、違和感を覚えていたドラマのセリフまわしが性差別(?)みたいなものにあたるということを知ったりはしてるからあることは知ってる。

知っているし、レイプとか痴漢とか大変なんだろうと思う。この思うは私が体験したことがないからというだけで他意はないんです。

でも、体験していないから口出すなと言われたらなんといえばいいのかわからない。

男性だって女性じゃないから黙っとけという話になるし、それなら反対に女性だって男性じゃないから黙っとけという話になると思う。対話ってできないんじゃないかなとか。そんなことを思うけど。

寄り添って感情に付き合うことはできるけど、それが過ぎた後にはそれに対策なり手を打つことが必要だと思うし、それができないならせっかくその土壌が昔よりあるのにって思う。

双方の納得から合意が生まれると思う。

被害者は被害者であるからって加害者じゃないわけじゃない。

女だからって、男だからって差別されたことがある人が、そうやって差別したことがないわけじゃないと思う。

私は女子校だったので、男の人の区別がそんなにつかなかったりする。差別かなあって思ったりもするけど、でも本人に伝わらなきゃギリセーフかなと思ったりする。

セクハラって遡及的ってのは間違ってないかなって思う。人によりけりってところとかすごいあるし。

「何言ってもハラスメント」ってのはたたかれがちだけど、そして確かに言いすぎかと思うけど、でもあり得ない話じゃないと思う。ハラスメントがどこで決まるかによってはそうなることもある。本人が思った時点でそうなるなら、なんでもそうなりうる。

でも「私がエビデンス」とかいうの見ると、(ついふぇみに救われた人がいるっていう意味らしいけど)、セクハラのエビデンスに私がなれるよなあとか。

あれって現実生活での問題で性別の性だと思うことが可能なものに対して自分の性じゃないのにっていうのに使えると思う。

(女性だから)理系は向いてないんじゃないかなあ。

()を本当に言った人がいないなら、それはただの邪推でしかない。

本当にただ単に

(あなたは)理系は向いてないんじゃないかなあ。

だったのかもしれない。

でも、日常生活の所作が、とか自分のいうことを補強してみたり。本当のところはわからないけど。

それに理系に女性が少ないっていうのは問題視されているわけだからもう既にその人たちの体験談は不要なものになっている。だから、その人たちの体験談は特にいらないものだ。よりそってあげるかどうかを決めるのはそのことを言われた人に判断がゆだねられていいんじゃないだろうか。

で、なら、現実での一つ一つの問題を解決していく方法を話し合うほうがいいんじゃないかとか。

ある一人の女性が言うことにとやかく言うこともないけど、とやかく言う人がいるから増えていくんだろうなあとか。

「あなたはそう思う、感じる人なんですね。そう感じた、思ったんですね。」

て心で唱えると落ち着く。

いいこと言うって思った人がいたところで、自分が思っている理由でそう言っているわけではないかもしれないし、暫定的に手を組むにしたってそこを知らないと何にもならないと思う。

嫌だった体験を語って人を批判する時に、大きい主語を使ったりするのはただのいちゃもんだよなあとか。いい体験だってそうだし。

そこスルーしたら根本的に解決はされない。

 

女性とはなんなのか、男性との違いは何なのか。

男性とはなんなのか、女性との違いは何なのか。

女性は全員が出産や妊娠ができるわけじゃない。子宮があるわけでもない。男性だからって胸が膨らまないわけじゃないし皮下脂肪が少ないわけじゃない。

脳梁だって女性全員が男性全員より太いわけでもない。

 

いい話ばかり私は女性だからと甘受している人見たりすると嫌だなって思う。根本的にはおんなじことしてて再生産なのに。

 

これを嫌がる人がいます。これをやりたい人がいます。

嫌だという感覚、やりたいという意思を極力否定しない世界を作るべく頑張りましょう。

ってことじゃダメなのかなあとか。今まで自分を差別してきた(自分で思う)人に同じ苦しみを与えないときが済まないのかなあ。

やりたくないとかそれが好きとかも否定されてはいけないのに、なんで専業主婦を志向したらいけないんじゃって思ったけどなあ。べるふっくすを思い出す。

 

いつももやもやするから書き出してみた。

もうもやもやしないために頑張るー。

 

ほんと、されたことないから幸せだから理解できないって言われると「痴漢されるためにはどうすればいいの」って言いたくなるけどな!なんでわからないことをわからないっていってでも苦しいんだねっていってこっちはどうしたらいいのかとか思うのに。

知らんがなじゃあ!!

この夏守ること

 1.バイト中は心をオフにする。

 2.ニューエクスプレス終わらせる。

 3.ドイツ語の教科書復習して単語を覚える。

 4.日常言語の論理学読み切る。

 5.殺人の人類史も読み切る。

 6.旅路の果ても読む。

 7.二コマコス倫理学読む。

 8.虞美人草も読み切る。

 9.森山先生の本を読む。

10.柔軟体操する。

11.一日一万歩以上歩く。

12.哲学の概説書たくさん読む。

13.ウィトゲンシュタインのことを学ぶ。(デリダ…)

14.腹式呼吸と滑舌練習毎日やる。

15.ピアノで幻想即興曲練習する。ツェルニーやる。

理解ができない

理解が出来ない。

整理がつかない。

しんどい。

言語学、何の本読めばいいんだ。

馬鹿すぎるのか。

 

ラッセルは文のみを考えた。

フランス王は禿だ。

この文の意味内容は

1.フランス王がいる

2.その人は禿だ

 

フランス王がいてその人はせいぜい一人でそしてその人は禿である。

ただ、フランス王がいないので偽になる。

 

ストローソンはフレーゲの思想のようなものとして前提を考えた。

1.フランス王がいる(前提)

2.その人は禿だ

 

「フランス王は禿だ」という文を否定した時、それはフランス王がいるということまでに否定は及ばない。つまり、文の意味内容ではなく前提であるという考え。

 

どちらも、文は有意味であると考えている。しかし、ストローソンは文の前提が偽である時にはその文自体は真とも偽とも言えない(真理条件がない)ということになる。

 

ただ、ストローソンの定義は当てはまらないことがある。前提が満たされていなくても、文が真理値を持ちうる時がある。

 

ただ、一部でも正しい。

文の有意味性は文法知識で判断可能だけど、前提という外の世界の知識が必要。

 

うー、文の正常な使用ってなんなんだろう…。

あと、真理条件って文の真偽を言うことが出来るための条件で、「雨が降る」の真理条件は「雨が降っていること」でしょ?そしたら、雨と降るっていうのが何を意味しているかっていうのは雨がどういうものかとか降るがどういうことかを知っているってことでそれは外の世界じゃないの?意味なの?文法知識なの?

いや、「フランス王は禿だ」っていう文の意味内容に含まれないだけで前提自体の真理値が言うことが出来るのか。

暗殺されたら死んでいるってのは意味論的含意だけど、いやそれは今関係ないのか。

 

 

 

 

指示で、

「あの杖を突いて歩いている人が歴史学の先生だよ」

→杖だった→ストローソンでも真

→傘だった→ストローソンだと偽。指示対象がなかったから。でもそれは常識とは反する。

→岩だった→真偽判定はできない。ただし、岩に対してだと述語がおかしいっていうのでカテゴリーミステイク。

 

ただ単に指示対象がいない(ない)だけだったら真理値ギャップはない!

ストローソンは帰属的用法と指示的用法をごっちゃにしちゃった。

 

「フランス王」っていうのは「フランス王がフランス王である」っていうことを言っていると限らないで対象そのものを指しているときがある。

 

帰属的だと、誰かわからないけどそれをした人。

帰属的用法だと、ラッセルの記述理論は機能する。

指示的だと、それをしたとされている人を明らかにさしている。仮に、その人が本当にはそのことをしていなくてもその指示自体には成功している。

って、ドネランは言ってる。

対象がいなくても、指示に成功することはあるっていうのがとりあえず大事?話者の意図というか。

でも指示語って「何かを指している」っていうことを表しはするけど、「何を指している」っていうことを意味してはいないから指示語がある限り文法知識だけでは無理なんじゃないの?

指示語について真理条件を、いや真理条件は文でしか言えないことだからこの言い方だと変なのか…。「ここにいる」っていう文は検証可能なの?どこにおるんよって思うけど…。どこどこにて、っていう前提条件が必要でない?その前提条件は文の内容であったりするの?でもそのどこどこにてっていう前提条件があったところで「ここ」の指示対象がまるきり一発でわかるわけではない。「ここは閉まるのが早い」とか、「この場所は閉まるのがはやい」って言い換えても、その土地の施設全体のことなのか何か特定の施設なのかはわからないし、そこまでの経緯とかが大事じゃないの?

それが文脈?

あ、でも真理条件はその文が真か偽かを検証可能にするものだから、その前提自体も真理条件と言ってもいいのか?そこをストローソンは勘違いしていたってこと?

でも前提が満たされなかったら真理条件がないってことは前提は真理条件にはならないの?

え?どゆことなの…。

真理条件を持てないってことは、前提の真偽を判定することによって判断が可能になる。前提の真偽の判定は、外の世界の物事が必要になる。

んー…意味って具体性なの?上から下に水が落ちることが雨ではないし、空から水が降ってきたら雨ってことを意味ってするの?でも、もしそれが水漏れだったりしたとしても、その水漏れで垂れてきた水を「雨」っていう言葉で指示することはできる。