理解ができない

理解が出来ない。

整理がつかない。

しんどい。

言語学、何の本読めばいいんだ。

馬鹿すぎるのか。

 

ラッセルは文のみを考えた。

フランス王は禿だ。

この文の意味内容は

1.フランス王がいる

2.その人は禿だ

 

フランス王がいてその人はせいぜい一人でそしてその人は禿である。

ただ、フランス王がいないので偽になる。

 

ストローソンはフレーゲの思想のようなものとして前提を考えた。

1.フランス王がいる(前提)

2.その人は禿だ

 

「フランス王は禿だ」という文を否定した時、それはフランス王がいるということまでに否定は及ばない。つまり、文の意味内容ではなく前提であるという考え。

 

どちらも、文は有意味であると考えている。しかし、ストローソンは文の前提が偽である時にはその文自体は真とも偽とも言えない(真理条件がない)ということになる。

 

ただ、ストローソンの定義は当てはまらないことがある。前提が満たされていなくても、文が真理値を持ちうる時がある。

 

ただ、一部でも正しい。

文の有意味性は文法知識で判断可能だけど、前提という外の世界の知識が必要。

 

うー、文の正常な使用ってなんなんだろう…。

あと、真理条件って文の真偽を言うことが出来るための条件で、「雨が降る」の真理条件は「雨が降っていること」でしょ?そしたら、雨と降るっていうのが何を意味しているかっていうのは雨がどういうものかとか降るがどういうことかを知っているってことでそれは外の世界じゃないの?意味なの?文法知識なの?

いや、「フランス王は禿だ」っていう文の意味内容に含まれないだけで前提自体の真理値が言うことが出来るのか。

暗殺されたら死んでいるってのは意味論的含意だけど、いやそれは今関係ないのか。

 

 

 

 

指示で、

「あの杖を突いて歩いている人が歴史学の先生だよ」

→杖だった→ストローソンでも真

→傘だった→ストローソンだと偽。指示対象がなかったから。でもそれは常識とは反する。

→岩だった→真偽判定はできない。ただし、岩に対してだと述語がおかしいっていうのでカテゴリーミステイク。

 

ただ単に指示対象がいない(ない)だけだったら真理値ギャップはない!

ストローソンは帰属的用法と指示的用法をごっちゃにしちゃった。

 

「フランス王」っていうのは「フランス王がフランス王である」っていうことを言っていると限らないで対象そのものを指しているときがある。

 

帰属的だと、誰かわからないけどそれをした人。

帰属的用法だと、ラッセルの記述理論は機能する。

指示的だと、それをしたとされている人を明らかにさしている。仮に、その人が本当にはそのことをしていなくてもその指示自体には成功している。

って、ドネランは言ってる。

対象がいなくても、指示に成功することはあるっていうのがとりあえず大事?話者の意図というか。

でも指示語って「何かを指している」っていうことを表しはするけど、「何を指している」っていうことを意味してはいないから指示語がある限り文法知識だけでは無理なんじゃないの?

指示語について真理条件を、いや真理条件は文でしか言えないことだからこの言い方だと変なのか…。「ここにいる」っていう文は検証可能なの?どこにおるんよって思うけど…。どこどこにて、っていう前提条件が必要でない?その前提条件は文の内容であったりするの?でもそのどこどこにてっていう前提条件があったところで「ここ」の指示対象がまるきり一発でわかるわけではない。「ここは閉まるのが早い」とか、「この場所は閉まるのがはやい」って言い換えても、その土地の施設全体のことなのか何か特定の施設なのかはわからないし、そこまでの経緯とかが大事じゃないの?

それが文脈?

あ、でも真理条件はその文が真か偽かを検証可能にするものだから、その前提自体も真理条件と言ってもいいのか?そこをストローソンは勘違いしていたってこと?

でも前提が満たされなかったら真理条件がないってことは前提は真理条件にはならないの?

え?どゆことなの…。

真理条件を持てないってことは、前提の真偽を判定することによって判断が可能になる。前提の真偽の判定は、外の世界の物事が必要になる。

んー…意味って具体性なの?上から下に水が落ちることが雨ではないし、空から水が降ってきたら雨ってことを意味ってするの?でも、もしそれが水漏れだったりしたとしても、その水漏れで垂れてきた水を「雨」っていう言葉で指示することはできる。